2019年1月10日木曜日

あの日、私はなぜ生き延びたのか−1(I survived atJanuary 7, 2006.)

※この記事は2013年11月にフェイスブックのノートにアップしたものを再収録しています。
At 2006-01-07, my father wanted to kill me.
I survived, and got away to house of relative's living in Toyohashi.
2006年1月7日(6日かもしれない。この辺は記憶がハッキリしません)
のことは、いろんな人に話しているのですが、それでも知らない人はたくさん
おられることでしょう。それと、まとまった文としては書いていないような気
がするので、ここに書いておこうと思います。
[注意:暴力的表現が出てきます。ご同意された上で以下お読みくださいませ。]



事件は、2006年1月、正月も過ぎた頃に起きました。
その前に当時の状態をご説明したいと思います。
私は当時実家に私の父/母とともに3人で住んでいました。2005年に、実
家に戻ってから私は「恩に着せられる」という強迫観念に取り付かれて、鬱状
態でしたが夕食のしたくや私の父に頼まれた用をなんとかやっていました。
理解できない人もいるでしょう。けれど子どもの頃、ことあるごとに自分の父
親に「誰が食わしてやっていると思っているんだ」と恩に着せられ続けたの
で、実家にいると、つまりあの人達(私の父母のこと)といると、そういうス
イッチが入ってしまうのです。環境で人間、どうとでも変わり得ます。
30代独身で無職な状態をどうするか。まずは鬱状態を改善し、じょじょに社
会復帰をする準備をする(より具体的には、短時間の仕事から始める)といっ
たことが当時の私には必要でした。(実際、豊橋に住んでからはそうなりまし
た)しかし私の社会復帰を、私の両親は支援することはなかったです。
私の父がしたことと言えば、JAの人と相談して私に保険金をかけようとしまし
た。確かに保険は何か(事故とか病気とか)の際にはあったほうがいいです
が、社会復帰には直接は関係ないことです。
また、事件直前には、私は親の紹介でお見合いの組織に登録することになって
いました。
エイセクシュアリティ(恋愛に関心がない)の私がなぜ結婚を考えたかという
と、自分の力で食っていくことに自信がなかったためです。
これも、鬱状態で無職の人間に勧めることではないですね。今思うと、見合い
したいと思っている男性に対して失礼ですね。これは事件のため、無しになり
ましたが、つくづく良かったです。
私の母は、私が短時間の仕事としてスーパーのレジをやろうと思うのだけど、
と話した時、ぶすっと黙り込んでいました。
私:「なんで黙っているの?」
私の母:「(長い沈黙のあと)・・だってぇ、しょうがないじゃなぁい」
私:「しょうがないってなにが?」
私の母:「・・・(黙り込んでいる)」
(私の母はこういう感じで、大人同士の会話が成り立ちません。その点、事件
後に私を引き取った豊橋の親戚とはスムーズに話が進んでいくので、本当にあ
りがたかったです。)
私の母が不満なのは、おそらく自分の娘がスーパーのレジをする、ということ
が気に入らなかったのだろうと推測します。なぜなら、私の母は私が東京に行
っている間、「ユキエは大学院に行っている」「大学で仕事をしている」とデ
マを周囲に言いふらしていた人間ですので、多分そうではないかと思います。
異常なまでに見栄っ張りな人間です。
長くなりましたが、そういう状況でした。
***
事件の発端は味噌でした。
私の父は毎日買い物に行き、毎日何かしら食材を買ってきました。
その日も「安かったから」と味噌を買ってきました。
私はげんなりしました。なぜなら、家には既に10袋以上、味噌があったから
です。3人しか住んでいないのに味噌をそんなに買っても、使い切れません。
(父はそういう買い方をする人でした。ですから実家は年々モノが増えて行
き、2005年に私が戻ったときには応接室など、いくつかの部屋がモノに埋
もれ、本来の部屋の機能を失っていました。)
私は家にある味噌を全てテーブルに並べました。「これだけ既に家にある」と
いうことを私の父に見せるためです。彼は最初ニコニコして「悪かったなあ」
と言っていました。しかし、数分後、急に怒りだしました。私の父はちょっと
したことですぐ激怒する気質を有しているので、これは予想出来ました。
私の父は「ユキ!」と怒鳴りながら私に向かってきました。
私の父:「謝れ!!」
彼は怒鳴りながら、身体をぐいぐいと押してきました。私と彼は、台所の入り
口でにらみ合いました。
この時私は不退転の覚悟をしました。
たとえ殺されても、ここで謝るわけにはいかない。
こんなこと、絶対におかしい。
(こんなことで悲壮な決意をするなんて、何か滑稽さすらありますね)
彼はさらに身体を押してきました。私は台所の方に押されました。彼は狭い台
所で私に拳をふりあげました。
「お前なんかなぁ、殺してやってもいいと思ってるんだ!!」
実際に経験されないと分からないかもしれませんが、「殺してやる」と言われ
ながら暴力を振るわれるのは、大変怖いです。たとえ相手が老人であってもで
す。
その時私の母はなにをしていたか? 私の父の後ろにいて
「ユキ、おとうさんにあやまりなさい。あんたが謝ればいいのよ」
と言っていました。
「警察呼んで!!」
私は叫びました。
「殺される!警察呼んで!!」
そして、・・彼を突き飛ばしました。彼と私の身体が離れたので、そのすきに
台所から居間に走り、警察を呼ぶため電話機に近づこうとしました。
「電話なんかするなぁーっ」
彼が追いかけて来たので、電話は出来ませんでした。
私はやむをえず、裸足のまま家の外へ出ました。
そして近所のおじさんの家に向かい、必死でドアを叩き、おじさんが出て来た
途端、おじさんにしがみつきました。
「殺される、殺される」
と言いながら。
私の父は家の外には出てきませんでした。おそらく、体裁が悪いからでしょ
う。
家の外のほうが、私にとって安全なのです。
近所の人たちが、見物していました。
だいぶ経ってから警察が来ましたが、誰が呼んだのかは分かりません。
その後の経緯で、私は同居はこれ以上できないので、豊橋の親戚の元に行く事
になりました。
私の親にいきなり私をあずかってほしいと電話で持ちかけられた親戚は、「ユ
キちゃんの意志を確認しないと。犬やネコじゃないんだから」と言ったそうで
す。私の意志確認をした後、そのまま、着の身着のままでわずかな荷物だけ持
って、気賀駅へ歩いて向かいました。
どういうわけか、私の母が気賀駅までついてきました。弁解するでもなく、単
についてきました。
もちろん私はまったく嬉しくありませんでした。
タイトルのことを書こうと思ったのですがさすがに長文になってしまったの
で、ここで一度切ります。

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